AIを学生たちに積極的に使わせるようになってから、ひとつだけ、はっきりと見えてきたことがある。それは、AIはすべての学生を等しく成長させる魔法の道具ではない、という事実だ。
たとえば、レポートの課題を前にして、何を書けばいいのか分からず手が止まってしまう学生がいる。テーマは理解しているが、どこから考え始めればよいのか分からない。言葉にする力が弱く、頭の中にある考えを文章として組み立てられない。そうした学生にとって、AIは非常に有効だ。課題文を入力すれば、構成案を提示し、論点を整理し、一定水準の文章を瞬時に示してくれる。これまで白紙のまま提出期限を迎えていた学生が、最低限「形になった文章」を出せるようになる。その変化は、教育現場において決して小さくない。
しかし同時に、別の問題も浮かび上がってくる。AIに対して「このテーマについて説明してください」といった単純な問いを投げた場合、返ってくる答えは、概ねよく整っている。論理は破綻しておらず、言葉遣いも丁寧で、教師が読んでも大きな誤りは見当たらない。だが、その内容はどこかで見たことがあるようなものばかりだ。強い主張もなければ、違和感を覚える視点もない。言い換えれば、多くの人が無難だと感じる意見を平均化した文章なのである。
問題が表面化するのは、学生がその文章を「正解」として受け取り、ほとんど手を加えずに提出し始めたときだ。なぜそう言えるのか、別の見方はないのか、自分は本当にその意見に賛成なのか。そうした問い直しが行われないまま、思考はそこで止まってしまう。結果として、提出されるレポートは読みやすく整っているが、複数人の文章を並べると、驚くほど似通っている。誰が書いたのか分からない文章が増え、学生一人ひとりの個性は、静かに削られていく。
ここで誤解してはならないのは、AIそのものが悪者なのではない、という点だ。問題は、AIを「考える代わり」に使ってしまう姿勢にある。AIは本来、人間の思考を助け、広げるための道具であって、思考そのものを肩代わりする存在ではない。何を問い、どこに違和感を覚え、どの立場から物事を見るのか。そうした根本的な部分は、人間にしか担えない。
実際、よく考える学生ほど、AIの答えをそのまま信じない。提示された文章に対して「本当にそうだろうか」「自分なら別の言い方をするのではないか」と疑い、修正し、時には全面的に書き換える。AIを使ってはいるが、主導権は常に自分の側にある。その過程で思考は深まり、文章にはその人なりの癖や視点が滲み出てくる。AIはあくまで補助輪のような存在にとどまっている。
教育の現場でAIを使わせて分かったのは、AIが人を賢くするかどうかは、その人がどれだけ「考えることを放棄しないか」に完全に依存している、という当たり前の事実だった。便利な道具ほど、使い方を誤れば、人を楽にする代わりに、均してしまう。
これからの教育で本当に問われるのは、AIの操作方法を教えること以上に、考えることを途中でやめない姿勢をどう育てるか、という点だろう。平均的であることが簡単に手に入る時代だからこそ、平均から外れる勇気を持てるかどうか。その価値は、これからますます大きくなっていくはずだ。






